SSブログ

ドイツ再訪記(1) [ドイツ]

ブーヘンヴァルト強制収容所跡

日本へ戻ってくる途中の3月下旬、再びドイツに立ち寄ってきました。
ナチスの時代になぜあんな暴走をしてしまったのか、またそれがなぜ実施可能だったのか、ぼくには理解できない面が多く残っているからと、3年前にまわることのできなかった所を訪れてみようと思い立ちました。
また、この年末年始に起きたイスラエルの侵攻も、その時代からつながる延長線上にあるはずだからです。

ドイツ中部のワイマール郊外にあるのがブーヘンヴァルト強制収容所跡。
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ナチスが政権をとった後、ミュンヘン郊外のダッハウに収容所を設置したのが1933年3月。続いて1936年7月に開設されたのがベルリン郊外のザクセンハウゼン
ブーヘンヴァルトは、1937年7月に設置された3つ目の基幹強制収容所とのこと。

設置時期からわかるとおりユダヤ人の絶滅収容所ではなく、初めはナチスへの政治的敵対者が収容され、やがて『反社会的な人間』と定義されたユダヤ人やジプシー、第2次大戦開戦後は戦争捕虜も収容されるようになったらしい。
1945年4月の解放までに、23万人以上の人が収容され、そのうち56,500人以上が死に追いやられたのだそうです。
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ドイツ訪問記録(10) [ドイツ]

まとめ


これはカイザー・ヴイルヘルム記念教会。西ベルリンと呼ばれていた時代の中心駅だったツォー駅のすぐそばにあります。1943年に空爆で破壊された建物が今もそのままに保存されており、戦争の無惨さを訴え続けています。

ヨーロッパの街を歩いていると、街頭で市民の意思表示行動を目にする機会が多いように思います。
ぼくが旅していた7月中旬は、ちょうどレバノンが激しい空爆にさらされていた時期でした。先日報告したユダヤ博物館に向かう舗道上では、40代くらいの女性がひとりで、クッション持参で路上にかがみ込んで「レバノンへの爆撃をやめよ!」と舗石にチョークで書き連ねているのに出くわしました。

話が脇道にそれますが、その女性の訴えかけの内容はもっともなことで同意できます。ただ、その場所がユダヤ博物館の前だったことから、もしかするとその女性はユダヤ人排斥を肯定する思想の持ち主なのかもしれません。
いつまでも今のような武力にまかせた対応が繰り返されていると、特定の集団全体を問題視する思想が勢いづいて、言論以外の方法で責めたてるおそれもあるのではと心配になります。互いの存在を認め合う関係へと、早く歩み出してもらいたいと思います。

話を戻して、他の国の雰囲気にふれることによって、身近な問題のとらえ方が少しだけ違ってくるものと思います。ぼくがここに文章を書き始めたのも、希望する世の中の実現に向けて、各々が意思表示することが大切だと強く感じたのがきっかけでした。機会を探って、またどこかを訪ねてみたいと思います。

ぼくはこの本を参考にして今回の旅程を計画しました。ポーランド、ドイツ、オーストリー等々にある、数多くのメモリアルサイトへのアクセス方法、簡単な地図、何が展示されているかなどが解説されています。

Concentration Camps: A Traveler's Guide to World War II Sites

Concentration Camps: A Traveler's Guide to World War II Sites

  • 作者: Marc Terrance
  • 出版社/メーカー: Brown Walker Pr
  • 発売日: 2000/10
  • メディア: ペーパーバック
 
みなさんもヨーロッパへ出かけることがあったら、このような場所に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。多くの施設が入場料無しで見学することができるので、安上がりでもあります。

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ドイツ訪問記録(9) [ドイツ]

ベルリン市内(その2)

 
ここはテロのトポグラフィー展示場。SSの本部など、ナチスドイツの恐怖政治を推進していた中枢機関が存在していた場所です。国の事業として組織的に行われてしまった行為の仕組みを考えさせられます。
ちなみに、ひさしの上部、木立の向こう側に横方向に連なっているのはベルリンの壁の名残です。

 
これは、Wittenberg-platzという地下鉄駅の出入り口に立っている看板です。

忘れてはならない恐怖の場所
・アウシュヴィッツ
・シュトゥットホーフ
・マイダネク
・トレブリンカ
・テレージエンシュタット
・ブーヘンヴァルト
・ダッハウ
・ザクセンハウゼン
・レーヴェンスブリュック
・ベルゲン-ベルセン
・トロステネッツ
・フロッセンベルグ

と書かれているとのこと。この駅は西ベルリンの繁華街、大きな老舗デパートのすぐ前に位置しています。多くの人が行き交う場所に掲げられたこの看板から、強い思いが感じ取れます。

写真はないのですが、プレッツェンゼー追悼所にも立ち寄ってきました。元々刑務所だった場所ですが、ヒトラーが首相となった1933年から1945年までの間に2891人がここで処刑され、その多くは反ナチス運動に関わった者であったとのことです。
1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件に関係したとみなされた人たちもここで処刑されています。抵抗活動も確かに存在したということが、ある種の拠り所となっているのでしょうか、毎年7月20日にはここで追悼式典が行われているらしい。ぼくがここを訪れたのはその7月20日の午前中で、式典の準備が進められており、要人も参列するのでしょう、多数の警察官が集まってきていたところで、写真を撮るという雰囲気ではなかったのでした。


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ドイツ訪問記録(8) [ドイツ]

ベルリン市内(その1)

地下鉄やバス、路面電車で移動可能なベルリン市街地区内にも、記念館などの歴史を物語る場所が多くあります。


これはユダヤ博物館の外観。外壁に傷跡のように配置された窓が印象的です。左側に一部だけ写っている赤い屋根の建物から中に入ることができます。
もらってきたパンフレットによると、開設されたのは2001年。『ユダヤ』と呼ばれる人たちが、いつ頃からどんな風にドイツの地において暮らしてきたのかが展示されています。信仰などが異なる人たちについて理解し認め合うことで、民族差別の不当性が浮き彫りになると考えられているのでしょう。


こちらはユダヤ人追悼記念碑。ブランデンブルク門のすぐそばという、ベルリンの中心部に昨年開設された場所です。地下部分に展示場があるとのことですが、長い列が出来ていたため並ぶ時間がとれず、中に入るのはあきらめました。

東西統一を経て、ベルリンでは再開発が盛んに行われているという事情もあるでしょうが、このふたつは比較的最近開設された施設です。そこには「反省」というテーマが強く込められていると感じます。
後ろ暗いことは過去のこととして流し去って、美談として切り出せる部分に光を当てたいという考えの人たちが元気な日本とは意識の違いがあると感じるのはぼくだけでしょうか?


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対極にもまた悲劇 [ドイツ]

昨日の日曜日、医者の言いつけを守っておとなしく家でテレビを見ていたら、BBCニュースで次のような話題が取り上げられていました。
Nazi 'master race' children meet
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6117744.stm

ユダヤ人迫害の歴史を見てきたわけですが、その一方で「優秀なアーリア人」勢力を広めるためといって、目を付けた女性とナチ隊員の間で、指令に基づいて子供を作らせる。金髪、青い眼、白い肌といった特徴を備える子供をさらってくる。そしてその子供たちは、「正しいドイツ人家庭」の養子とする、などということが行われていたのですね。

戦後、その子供たちは「ナチの子」と呼ばれて冷たい仕打ちを受けたり、自己の存在に罪悪感を抱いたり、60才を超えた今でも「自分は何者か?」を探していたりといった悲劇の中にいて、ひっそりと暮らしてきたというのです。

なんということでしょう。言葉を失ってしまいます。


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ドイツ訪問記録(7) [ドイツ]

ヴァンセー会議記念館

ベルリン市内から電車S1号線もしくはS7号線のポツダム(ポツダム宣言のポツダムですね)方面行きに乗ると、郊外にヴァンセー(Wannsee)駅があります(S1号線はザクセンハウゼン収容所へ向かったのと同じ路線で、ベルリン市街地を挟んで反対側になります)。ヴァンセー湖という湖があって、水辺で遊んだりヨットに乗ったりするベルリン市民の保養地となっているようです。
駅前から114番のバスに乗って湖岸沿いに10分ほど進み"Haus der Wannsee-Konferenz"という名の停留所で降りると、すぐそばに邸宅の門が見えます。湖畔の静かな木立の中に立つ瀟洒な建物です。

この建物は1941年から1945年までSSの会議場およびゲストハウスとして利用された歴史を持ち、1942年1月20日に15名の高官が集まって、ユダヤ人問題の最終解決策(絶滅)を話し合った場所です。

現在は、当時の人種差別に関する充実した資料を展示する博物館となっています。
出席者の書き込みと思われる跡のある古い文書も見ることができます(ドイツ語がわからないので内容は理解できませんでしたが)。

『誰がユダヤであるのか』の基準として、
・当人の祖父母4人のうち3人がユダヤ教徒ならば、当人はユダヤ人

・祖父母のうち1人がユダヤ教徒ならば、当人はユダヤ系
など(この間はさらに細分化されている)の決め事があったといいます。差別の理由として公然と宗教や生まれを掲げるというのは、その時代であったとしてもおかしな考え方ではなかったのか。
頭の形で区別できるとして、頭部の計測が行われている写真も展示されています。
医学系のテクノクラートが深く関与していたのでしょうか、科学的に裏打ちされているかのように装っていたようです。結論ありきで、全体の妥当性を考慮せずに専門知識を振りかざした悪例です。


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ドイツ訪問記録(6) [ドイツ]

ザクセンハウゼン記念博物館(その3)


外周をフェンスで囲われた収容所の敷地の一角に、さらにコンクリートの塀が巡らされた刑務所区画があります。建物は一部分しか残されていませんが、独房がそこにあったことを示す基礎が連なっています。
そのそばには、写真のように木製の柱が3本立っていて、柱の上部には上向きに金具が突き出ています。後ろ手に縛り上げた収容者を、金具に吊り下げて拷問が行われていたといいます。

 
これは、クレマトリウムの跡。収容所の解放直前に隠蔽のため爆破された所を、掘り返して屋根をかけて保存しています。知られてはいけないことをやっていたという認識はあったようです。

クレマトリウムの近くには、医学者たちの研究室が並ぶ建物と解剖室が建つ医療区画があります。あえて写真は載せませんが、白い光を静かに反射するタイル張りの解剖台がふたつ残されています。
文字通り生身の人間を対象にして研究を進めたのですから、医学者たちにとっては恵まれた仕事環境であったのでしょう。「医学の発展のために」との思いこみで、行為を続けていた者もいたのかもしれません。
しかし、専門家としての役割以前に、人としての皮膚感覚に欠けていたといわなければなりません。
そしてこのことは、現代においても配慮が必要なことではないかと思います。


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ドイツ訪問記録(5) [ドイツ]

ザクセンハウゼン記念博物館(その2)

ドイツの報告がまだ残っています。

ザクセンハウゼンでは、広い敷地のあちこちで、テーマ別に分けて詳しい説明が展示されています。

 
ここはそのうちのひとつで、ユダヤ人が収容されたというバラックです。建物の中には当時の様子が再現されています。

 
ここはトイレ。隣との仕切など無いつくりですが、人数と便器の数の比率からして、ここを使えればまだ良い方だったのかもしれません。

 
ここには"bath"という説明書きがあったのですが、どんな使い方をしていたのか想像できません。多人数で共有する大きな洗面器といった様子だったのでしょうか。いったん伝染病の病原菌が持ち込まれたりすれば、容易に建物中に広まったことでしょう。
内部では他にもカイコ棚状の寝台などが見ることができますし、地下部分には当時の文書や記録の残されている収容者のプロフィールなど多くの資料が展示されています。

この場所は、東ドイツ時代にも一部分が「反ファシズムの勝利の象徴」の記念施設となっていたらしい。その後、一時は全く別の土地利用計画が持ち上がったこともあったようなのですが、保存を求める市民運動の高まりなどもあって、1993年から連邦政府と州が折半して設立した財団によって運営される博物館として歩み始めたとのことです。

確かに多くの人が訪れているけれども、たいした額の金を落としていくわけではない。それよりも広い土地を利用した商業施設でも誘致した方が、雇用の場も増えるし、地域の利益になるのではないかといった考えが頭の片隅をよぎるのは、ぼくが日本に暮らしているからなのでしょうか。
とにかくあの地域の人たちは、それがどんな歴史であっても正面から見つめ、その場所を保存・整備することを選択した。
改修作業が行われていて入ることのできない建物もあったので、いつの日にか再訪することが叶えば、また別の展示に触れることができるかもしれません。


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ドイツ訪問記録(4) [ドイツ]

ザクセンハウゼン記念博物館(その1)

ベルリン周辺に場所を移します。

ザクセンハウゼン強制収容所は、1936年の夏に開設され、ナチス支配下の全強制収容所の管理部門がここに置かれていました。1945年4月に解放されるまでに、200,000名が収容されたといわれています。
ベルリン郊外に位置するこの施設は、大戦終了後の1945~1950年の間、ソビエトの政治犯収容施設として転用されたという歴史も持っています。

ベルリン市内から近郊電車S1号線に乗って1時間ほどでオラニエンブルク(Oranienburg)駅に着きます。この駅前から収容所までのバスもあるのですが運行本数が少なくちょうど良い時間の便がなかったため、歩くことにしました。


駅を出て右手に進み、線路に平行な道を歩きます。要所要所に案内看板が立てられているので、迷うことはありません。アパートやスーパーマーケット、戸建ての住宅などをながめながら20分ほど歩くと記念博物館の入り口です。

 
収容区画への入り口に位置する塔

ここの門扉にもARBEIT MACHT FREIの文字が...

ここでも広大な敷地が広がっている。とても暑い日だったので、歩き回るのがつらくなってきた。と思っていたら、軍靴の靴底の性能を確かめるために収容者が延々と行進させられた、などという場所もあるのでした。


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ドイツ訪問記録(3) [ドイツ]

ダッハウ強制収容所メモリアルサイト(その3)

話をドイツに戻します。


管理棟だった建物の中は、多くの展示物が並べられて充実した博物館となっている。この建物の裏側には独房が連なった刑務所棟がある。
 
収容者が暮らしたバラックが再現されており、寝起きしたカイコ棚が設えられている。写っているものは寝る部分に細かな仕切があるが、このような形状にも色々と変化があったらしい。

 ぼくがここで驚いたことのひとつは、とても多くの人たちが見学に来ていたことです。ぼくが訪れたのが7月18日で、夏休みの時期だったせいもあるのでしょうが、老若男女さまざまな人たちがたくさん押し寄せていました。


その中でも特に目についたのが高校生くらいの年頃の若者たちです。


4, 5名の友達同士といったグループもいれば、先生に引率された数十人の集団もいる。そういえば、ここまで来る電車にもやかまし...イヤ、にぎやかなグループが複数乗り合わせていましたが、彼らの目的地もここだったに違いありません。


そんな現代の若者たちも、ここでは真剣に展示物を見つめています(わいわいとふざけながら見て回れるものでないのは確かですが)。
後でレポートを書くのでしょう、それぞれがノートを手に、熱心にメモをとりながら見学している様子が印象的でした。


犠牲者には自国民が多くいたという側面はありますが、ドイツとして組織的に行ってしまった負の歴史であることは確かです。それをていねいに掘り起こし、現場を保存・公開して何が起きたのかを伝えようとする姿勢には感心させられます。


『自虐史観』などというレッテルを貼って負の部分を覆い隠そうとするのではなく、何があったのかを広く知った上で、それを乗り越えようとする努力が必要だと思うのです。

 

※たくさんの人が押し寄せていたというエピソードをふたつ...
このメモリアルサイトでは30分間ほどのドキュメンタリー映画を、250名が座れるというホールで11:00と15:00からドイツ語で、11:30と14:00から英語で上映しています。ぼくは長い列の一員となって11:30の回に何とか入場することができたのですが、入りきれなかった人もたくさんいて、急遽12:00からも追加上映されていました。


次の予定があったのでぼくは昼過ぎに帰途についたのですが、15~20分おきに走っている鉄道駅までのバス(この時間帯には2台分の車体が蛇腹でつながっている車でした)が東京の通勤電車並みの混雑で、1便見送って次の便に何とか乗り込んだといった具合でした(あちらの人たちにはそのような状況自体が珍しいらしく、写真を撮ったりして結構楽しそうでしたが...)。


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