動かない-動けない社会 [社会]
ふたつ前に書いたこととつながりがあるのだと思う。
台風19号は13日夜、暴風雨を伴って近畿地方を横断した。JR西日本は前日の予告通り、同日夕から神戸線、宝塚線など近畿2府4県の全24路線で約1200本を運休したが、阪急、阪神などの私鉄はおおむね通常通りの運行を続けた。JR西の対応に、防災の専門家からは「唐突過ぎた」との苦言が出る一方、「最悪の事態を考えて危険を回避するという判断は間違っていない」と評価する声もあった。
JR西は12日午後1時すぎ、13日午後4時からの運休を発表した。同社は「台風の進路や規模から、風雨が規制値を超える可能性が高く、安全を第一に考えた。事前の早い段階でお知らせすることで、外出計画の変更を考えてもらうことも期待した」と説明する。
阪急、阪神は事前の運休計画について「検討していない」とし、気象状況に応じて適宜、判断したという。「一時、数分の遅れが発生したほかは大きな乱れはなかった」(阪神)としている。
JR各駅では、運休に戸惑う人の姿も多かった。三ノ宮駅では、上りが午後3時15分発を最後に運行を終了。長崎県の大田黒(おおたぐろ)吉治さん(35)は「帰りの飛行機が欠航し、神戸空港から戻ってきたのに」と肩を落とし、妻と幼い子ども2人を連れて阪急で神戸市内の親戚の家へ向かった。
大阪駅では13日午後4時25分ごろ、最後の電車が出発。大阪市城東区の男性会社員(34)は「危ない運転よりはすべて運休の方がいい。JRは思い切った判断をした」と評価する。一方、九州の実家から戻る途中だった同市のアルバイト男性(32)は「他社線は動いており、柔軟に対応してほしかった」と疲れた様子で話した。
専門家の評価も分かれた。
河田恵昭・関西大教授(防災・減災)は「空振りを恐れず、事前に防災対応するのはいいが、今回は唐突で、利用者に不親切だ。せめてその根拠となる考え方を広く説明し、理解を得る努力をしないと」と指摘する。
室崎益輝・神戸大名誉教授(防災計画)は「迷惑を被る人は出るだろうが、皆が安全を考えて手を止めるという対応は将来的な方向としては良い。それを許容する防災文化をはぐくみ、被害予測の精度を上げていかないといけない」と訴える。
神戸新聞(2014.10.14)
嵐の中で電車を走らせて、もし万が一にも事故があったらどうなるか。
「事故になることはわかりきっていたのに、金儲けを優先して乗客の安全を軽視した」とマスコミが騒ぎ立てるのは目に見えている。
A新聞は文書の断片を掘り当てて、「職場放棄した職員がいたから深刻な事故になった」とセンセーショナルな物語を創作するだろう。
不便を感じた人もいるだろうし、是非を論じるのは大いに結構だが、運休の判断は世相が求めた必然ではなかったかとぼくは思う。
「私鉄は事故もなく動いていたのだから…」と結果から論じるのはちょっと違うんじゃないだろか。
嵐が予報されていた時点で、運行を判断する人たちがどんな条件下にあったかを考えてあげなくてはならない。
「どんなに小さなリスクでも回避しなければならない」という心理的圧力が覆いかぶさることはなかっただろうか。
責任者は、感情論で被告席に座らされて断罪される姿が頭をよぎったかもしれない。
大きく安全側にシフトして判断せざるを得ない世の中になってきてるんだよ。
相当な拡大解釈であっても『冒険』と見なされてしまうような行為が容認される余地は、とても小さい社会に既になったのだと踏まえたうえで物事を見ていかなければならない。
知ろうとすること(書籍) [社会]
こういう本が、3年半経ってようやく出版されるようになったんだなぁ、と思う。
著者のお二人とも、現地に入ってそこで暮らす人たちと向き合う取り組みに奔走してきた日々から、少し落ち着いて「本を作る」という作業を出来るようになったのかもしれない。
そしてなによりも、このような内容を表明する人は、時代劇の捕り物のように「御用だ、御用だ!」と叫ぶ大勢に取り囲まれて不必要な苦労を強いられる時期が続いた。糸井重里さんなんてこの夏も、福島の桃の写真をSNSに載せただけで方々から石が投じられたようだ。 (たいへんささやかながらぼくもそんな経験をした→2012年3月の記事。)
出版業界には、センセーショナルに人々の不安を煽る本でなければ商売にならない(売れない)との意識があったように思う。
意図的にボリュームを削ぎ落とし初出が文庫版という手軽な本だから(価格は464円)、それぞれで読んでもらうのが良いと思うが、ひとつ引用させてもらうのは後書きのタイトル。
もうひとつのあとがき
こことのありよう、というか「姿勢」のこと
特異なことを言っているとは思わない。
社会人としてというか大人としてというか、当たり前のことじゃないだろうか。
しかし、そんな「姿勢」ではない人があまりにも目立っている今だから、とても光っていると感じます。
もう、冬眠するしかないのでは? [社会]
こんな輩が現れるかもしれないとは思っていた。
御嶽山の東側のふもとの長野県木曽町の町観光協会に「どうして観光地として売り出したのか」など心ない批判が寄せられていることが分かった。協会が会員業者にアンケートしたところ、7割が「噴火で大きな影響がある」と回答し、旅館やペンションでは予約のキャンセルが相次ぐ中、今後の経営に不安を抱く業者らに追い打ちを掛けている。
同協会によると、電話やメールなどで「噴火するかもしれない火山と分かっていて、どうして観光地として売り出したのか」「どう責任を取るのか」といった批判が20〜30件、協会に入っているという。
アンケートは噴火直後の9月末に実施し、回答があった31業者のうち21業者が「大きな影響がある」とした。
同町の観光業は、7〜11月が年間収益の7割を占め、11月末までの見通しについて12業者が「死活問題」と大きな危機感を抱いていた。宿泊業では、既に予約客の2〜5割がキャンセルしたという。会員らは「町全体が火山灰に覆われていると思い込まれている」などとして、協会に風評対策を要望した。
噴火に伴う入山規制の範囲は限定的なため、御嶽山のロープウエー以外の主な観光施設は営業できる状態だが、3日に開かれた協会の役員会では「捜索活動が続く中、当面はPRせず、収束を待つ」と決めた。
近くの同県南木曽町で7月に起きた土石流災害でJR中央線が約1カ月間寸断され、木曽町を訪れる観光客が2〜3割減少。8月も天候不順で登山客数が落ち込んだ。【古川修司、深津誠】
毎日新聞(2014.10.4)
「危険性が科学的に明示されていないとしても、その可能性がわずかでも想定されるのであればその原因物は排斥されなければならない。これが国際的な常識です。」
これは、2011年に社民党の推薦で国会証言した東大のセンセイが、低線量被曝と関連づけて言い出したのが最初だったでしょうか。
『予防原則』という概念と少しでも向き合ったことのある人であれば、そんな定義でこの用語を持ち出してしまうのは適切ではなく、この概念の意義を損ないかねないと多くが感じたことだろう。実際に異論・反論を発信した人もいた。
しかし、時すでに遅く、「」で括った考え方は世間で暴走し、震災がれき拒否・東北産食品拒否を叫ぶ人たちの行為を正当化する支柱として今でも重宝されている。
その考え方を信奉する人の視点に立てば、噴火の可能性がわずかでもある場所に観光客を招き入れるのは、強く非難しなければならない巨悪の振る舞いに見えるのだろう。
いいでしょう、国際的な理解とはかけ離れているけれどそれをわが国の常識としてみましょう。
次の週末は連休でどこかに出かける人も多いとは思いますが、例えば温泉は火山活動と関連がありますよ。火山に近接した温泉地はすべて営業禁止ですね。
いやその前に、そこへ人々が移動するための手段、バス・タクシー・電車・航空機などはそうならないように多大な努力が尽くされているけれども、それでも事故の可能性は残るから批判を浴びせて禁止しなければならない事業でしょう。
いやいやもっと根源的に、食品を生産・販売したり食事を提供することも、それが原因となって食中毒やアレルギー反応で人が亡くなる可能性が皆無とは言い切れないのでダメでしょう。
木曽町の観光協会に電話やメールをしている人たちは、どこか本人が安心出来る場所を見つけて冬眠していてくれませんか。
その間に、ぼくたちが世直しの努力をしますよ。
この国は平和か? [社会]
前エントリーの終わりで『砲弾が撃ち込まれている』と物騒な表現をしたが、ぼくはこれを突拍子もない例えだとは思っていない。
最近は自衛権に関わって新聞が平和国家が変質したと見出しを打ってみたり、1945年8月を振り返ってこの間ずっと平和だったと唱える報道が多い。
確かにこの国には鉄の弾が飛び交うような紛争はない。
でも、『放射脳』さんたちの幼稚な自己満足だけと引き替えに、特定の地域を差別して困難を押しつけることが何年も続けて許されている状況を、「平和で暮らしやすい国」といえるのだろうか?
ああいう事をやっている人たちはたぶん平和で豊かなんだろう。
明日も来月も来年も食いっぱぐれることなど絶対にないと信じているから、食料品は外国から好きな物を好きなだけ輸入できると考えているから、「東北で作った食べ物は要らない」「東北での食料生産を止めろ」などと言っていられるのだろう。
あのような人たちの活動で救われた命など無いし、健康を維持出来た人もいない(むしろあの人たちの話を熱心に聞けば聞くほど鼻血が出ちゃったり心臓がひっくり返ったりするんじゃないの)。
一方で、いつまで経っても戻らない客足に頭を悩ませる人は大勢いるし、生業の継続を断念してしまった人もいる。
彼らはホントに懲りない人たちだなぁ。
先日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で次のようなスピーチがあった。
福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。
今の時点で甲状腺がんと診断された症例は、これまでの医学的知見に照らして原発から出た放射性ヨウ素に起因するものではないと報告されている。
鼻血マンガの間違いをまた繰り返している。
がんが見つかって手術等の治療を受けて、ただでさえ心穏やかではない家族を、ゆがんだ主義主張のために利用するんだねぇ。
あのスピーチをした人は、長崎市で震災がれき受け入れ拒否を叫んでいた人だから、
http://www.zenshin-s.org/zenshin-s/sokuhou/2012/05/post-1583.html
間違いに気付くはずが無いのかもしれない。
長崎の原爆式典も中核派が堂々と闊歩する場になったんだなぁ。
「放射能とナショナリズム」(書籍) [社会]
この本を読んでみた。
- 作者: 小菅 信子
- 出版社/メーカー: 彩流社
- 発売日: 2014/02/18
- メディア: 単行本
裏表紙の文章を引いておくと
政府や東電、学者に対する強い不信と、
マスメディアや論壇の機能不全により、
いま日本を<不信の連鎖>が覆いつくそうとしている。
原発推進派のレッテル張り、反原発美談、
原子力をめぐる「安全神話」から「危険神話」への単純なシフト。
「安心神話」への逃避。
これは、原子力の神話化がより強化されただけではないのか?いま日本を呪縛する
「放射能による不信の連鎖」を断ち切るための提案とは。
深い思索の旅に誘う本。
ぼくも2012年10月に、『フクシマ』という表記を批判的にとらえた事を書いているので、この本には共感するところが多かった。
「おやっ」と思ったのは、放射性物質の恐怖を非科学的に煽り立てる山本太郎的・東京新聞的・美味しんぼ的な言論と脱原発・反原発論をほぼ等号で結んでいるように感じたことだ。
ぼくは2012年3月に「脱原発運動らしきもの」と表現をして、そんなのはニセの脱原発だと書いているが、今になってみればこれは間違いだったと考えるべきだろう。
ああいう言動をきっぱりと批判しつつ冷静に原発のあり方を思索することは、この国では出来なかった。
もちろん専門的な立場から細々と活動している人もいるが、そのような論考には『脱原発大衆』から『隠れ推進派』とレッテル張りが行われている。
現実に事故が起き、その現場の修復に必死に取り組んでいる者、現状の環境でのリスクを評価しその環境下での暮らしを成り立たせようと努力している者 -例えば、確かにセシウムが降りた圃場であっても、そこで育てた作物にはセシウムの移行が無いことを手間と費用を費やして科学的に確認して営農している人- の視点に立った時に、プロメテウスなどを持ち出して放射性物質は人類が一切触れてはならない物だとおどろおどろしく『危険神話』を印象付ける言説など何の役にも立たない。
軍用ヘリコプターに事故の可能性があれば、イカロスの翼でも持ち出して印象操作するつもりなんだろうか。
本に戻って…
私の憂慮と関心は、限界状況における人間性の保護と、その後の個人・集団・国家間の関係修復・和解・再会にある。
という記述については「ちょっと待ってほしい」と思う。
著者の本来の研究テーマに沿った記述なのだろうし、長いスパンでは必要な大人の視点だとは分かっている。
しかし、今はまだ砲弾が撃ち込まれ続けている状況ですよ。この砲弾がゼロになるということはたぶん無いのだろうけれど、そういうことをする人たちは非科学的な愚か者だとする社会的評価が広く認識された後で考えるべき事なのではないだろうか。
今日時点でガザの住民に「和解を指向しろ」と説くのは酷なことだと分かってもらえると思う。
ひとつの節目に(4) [社会]
前エントリーの最後で『責任』という言葉を都合良く語る人たちについて言及したが、賢そうな素振りでマスメディアに登場する人たちは壊れちゃっているんじゃないか?
「脱原発が都知事選の争点だ!」なんて言っている、「東京は巨大な選挙区だからその結果が国策を左右すべきだ」とも。
都知事選の告示後は少し控え目になったが、先週末にも毎日新聞とテレビ朝日がそれぞれ『東京はいかに特別か』と力説しているのを目にした。
『東京都民だけが上級市民なので重要国策の意思決定に参加できる』なんて決まりがいつ出来たんだ?
なんだろね、この特権意識は。
世の中は自分たちだけが回しているとでも言いたげな傲慢さは、世界の中のアメリカ、日本の中の東京の特質なんだろか。
地方が自らの課題解決のために実施した取り組みが、事後的に国の施策に取り込まれるということは確かにあるだろう。しかし、最初から「国策を転換するために地方選に立候補する」なんて言うのは、目的と手段を取り違えている。
統治の領域と権限を分散する仕組みは、政治的なお化けを生み出してしまわないように機能してきたんだろう。
しかし、今のような乱暴な話をすんなり受け入れている状況は、あらゆる事を一人で決めてくれる王様(今は殿様と言った方がしっくりくるか)の到来を待望してるんだろうか。隣の半島の北半分を統治する仕組みにあこがれてるんじゃないのか。
国会議員も「それはオレたちの仕事だ冗談じゃない!」と怒るのかと思いきや、民主党なんかは嬉々として旗振り役になっているらしい。
乱暴な話を垂れ流しているマスコミの幹部やら大学教授やらも含めて、自分が今の役職に適しているかどうか問いなおしてみてはどうか。
あんなことを言っている人物が万が一就任しても何の権限も与えられていないのだが、選挙の時だけ耳障りの良い事を聞かされて社会は何も変わらないということがこうも繰り返されれば、えもいわれぬ不満感が世の中に充満する。そんな雰囲気につけ込む跳ねっ返りの軍人が出現するなどして、社会がカオスに陥る例をたくさん見ているはずだ。日本だけはそうならないと安心しきっていて大丈夫だろうか。
まあ、ここで見たように騒いでいるのは『脱原発』と唱えていれば受けがいいと思っている報道会社と一部の政治屋が中心で、「真面目に都の仕事を考えてほしい」などと街の声が聞こえてくるから冷静に見透かしている都民が少なくないのかもしれない。
ひとつの節目に(3) [社会]
前々回のエントリーから続く雑感です。
福島県内の除染作業で除去した土壌等の処分場も設置が難航しているようだ。そういう施設の必要性はより一層強く認識されているのだろうが、具体像が見えれば地権者や周辺住人にはやはり戸惑いが生じるのだろう。
考え方が難しくなるのは、施設の性格付けが疑念を生むからだろう。中間貯蔵施設と名付けられ、中間貯蔵開始後30年以内に福島県外で最終処分すると定義されているけれども、先の見通しは全く立っていないし難航は必至だから、「いったん設置すれば結局そこから動かせないのではないか」との懸念も当然だろう。
中間貯蔵という位置づけが本当に良策なのだろうかとは思っていた。埋設した物を後日また掘り返すとなれば、「放射能が飛散したぞ」とはしゃぎ回る連中が出てくるだろうし…。
先日NHKが、中間貯蔵との考え方は当時の菅首相が地元との協議の場で突然言い出したもので、環境省の職員も寝耳に水だったとレポートしていた。
あの党には、口先だけでその場をしのごうとする責任感欠如の人たちが揃っているんだなぁ。
最近「東京には電力の大量消費地としての責任がある」と言う人が大勢いるけれど、そんなに責任を感じているのならこの土の一部だけでも引き取ったらいいんじゃないかね。30年も経てば単なる土として取り扱える部分もあるだろうし…。
なんてね、こんなこと言ってしまうと東京新聞あたりが猛反発するだろうなぁ。
ひとつの節目に(2) [社会]
前エントリーに続く雑感です。
と前置きして書こうと思っていたのは別のことなのだが、気にとまるニュースがあったのでまずにそのことを…
国は、施設などで暮らす障害者に地域のグループホームなどに移って生活してもらう「地域生活移行」を進めていますが、こうしたグループホームに対する周辺住民の反対運動が、過去5年間に全国で少なくとも58件起き、建設断念に追い込まれるケースもあることが、NHKの取材で分かりました。
国は、障害のある人に地域の一般の住宅で暮らしてもらう「地域生活移行」を進めていて、各地でグループホームやケアホームの開設が進められていますが、周辺住民から反対運動が起きるケースが全国で相次いでいます。
NHKが全国の都道府県と政令指定都市を対象に、過去5年間に起きた反対運動の件数を尋ねたところ、少なくとも58件に上ることが分かりました。
また、精神障害がある人と知的障害がある人の2つの家族会にも同様の調査を行ったところ、全国で合わせて60件の反対運動が起きていることが分かりました。
このうち家族会の調査では、反対運動を受けて、予定地での開設を断念したり別の場所への変更を余儀なくされたりしたケースが36件に上っていました。
この中では、▽精神障害者のグループホーム建設に対して、住民が反対の署名を集めて自治体に提出したケースや、▽障害者に差別的なポスターを予定地周辺に掲示したケース、さらに、▽住民説明会で「障害者が住むようになると地価が下がる」と訴えて建設反対を主張したケースなどがありました。
去年成立した障害者差別解消法の付帯決議では、グループホームの開設にあたって周辺住民の同意は必要ないことが明記されましたが、障害者が地域で暮らすために周辺住民との関係が大きな課題になっていることが浮き彫りになっています。(NHKニュース 2014.1.26)
「何か似ているなぁ」と思ってしまう。
このニュースにある『反対運動』をやっている人も、グループホーム開設が自分から離れた場所であれば、「結構なことじゃないか、大いにやりなさい」と言うんじゃないだろか。
社民党的・山本太郎的・東京新聞的性根を堂々と主張できてしまう人が、この国には少なくないんだなぁ。
ひとつの節目に [社会]
この国の『痴』的水準はどんどん高まるばかりだとあきれてしまって、ここに何か書く意欲も無くなっていたが、これまで言っていた事に関して一定の区切りと思えるニュースなので記しておきたい。
東日本大震災によって宮城県内で発生した災害廃棄物の焼却処理が完了し、県内最後の稼働施設となっていた宮城県石巻市潮見町の仮設焼却炉で18日、火納め式があった。被害が大きかった岩手、宮城、福島の3県で災害廃棄物の焼却が終わるのは初めて。
県沿岸部の15市町で生じた災害廃棄物と津波堆積物の総量は推計で約1870万トン。県は12市町から処理を受託し、2012年3月以降、9カ所に仮設焼却炉を整備するなどして作業を進めた。
県内で焼却処理された可燃物の災害廃棄物は、市町の独自処理を合わせて約170万トン。宮城県石巻市の焼却炉では12年5月から今月までの21カ月間で約57万トンを処理した。
県は今後、焼却灰の埋め立てなど最終処分を進め、全ての災害廃棄物の処理を本年度末までに完了させる。石巻市の仮設焼却炉は夏ごろまでに解体・撤去了する方針。
式には井上信治環境副大臣や若生正博副知事、地元の首長、広域処理に協力した東京都や北九州市の幹部ら約300人が出席。会場には焼却炉内を映し出すモニターが用意され、関係者が合図と同時にボタンを押し、燃焼バーナーを止めた。
若生副知事は「焼却処理の終了は復旧から復興へと向かう区切り。今後は被災者の生活支援や新しいまちづくりなどの取り組みを加速させる」と述べた。(河北新報 2014.1.19)
「がれきを焼却するな!」と、一時はあれほど騒々しかった人たちもここ一年ほどはすっかり静かになっていたから、「焼却はまだ続いていたの」と意外に思う人もいるかもしれない。
そう、あの人たちは「自分の近くで燃やすな!」と言っていただけで、東北で燃やすのなら無関心なんです。
いろんな人がいましたね。
「こっちで焼却すると住民が危険にさらされるが、岩手・宮城には危険の及ぶ住民がいないんだ」と豪語する人がいたり、「大阪で焼却が始まったから心臓がひっくり返った」と大ボラを吹いて国会議員に登りつめる人がいたり。
社民党なんか現時点でも自らのウェブサイトにこんな文章を載せてますよ。
『「受け入れ反対」のためにリスクを誇張し歪めるような主張は、問題の解決につながらないばかりか、被災地への差別にもつながりかねず…』
なんて記述もありつつ
『(がれき焼却は危険なので)仮設焼却施設の増設等、現地処理の加速化をさらに追求すべきだ。』
と言うのだから、党の政策として被災地差別を推進する意思表示なのだろう。
当時の政府がこの件にまともな対処できなかったあおりで、放射性物質の多い廃棄物の処理は混迷を極めている。
東京電力福島第1原発事故によって宮城県内で発生した指定廃棄物(放射性セシウム1キログラム当たり8000ベクレル超)の最終処分場に関し、環境省は20日、建設候補地として、栗原市、大和町、加美町の国有地を正式に提示した。今後数カ月かけて地盤や地質を詳しく調査し、最終候補地を1カ所に絞り込む。候補地周辺で風評被害への懸念が強まるのは必至で、地元の理解を得られるかどうかが焦点になる。
環境省は県と35市町村の首長らの会議を仙台市で開き、選定経過を説明した。栗原市の候補地は市北西部の深山嶽地区で面積24.4ヘクタール、大和町は町北部の下原地区で9.3ヘクタール、加美町は町西部の田代岳地区で7.9ヘクタール。いずれも山間部で最も近い集落でも2キロ以上離れている。
国が最終処分場の建設を目指す宮城、茨城、群馬、栃木、千葉5県で候補地を提示するのは自公政権になって初めて。
同省によると、候補地は地滑りなど自然災害の恐れがある地域や、年間客数50万人以上の観光地周辺などを除いた国有地と県有地から検討。必要面積2.5ヘクタールを確保できる17カ所を抽出した。集落や水源との距離、自然植生の少なさなどを評価して3カ所を選んだ。
井上信治環境副大臣は会議後、「候補地の自治体には大きな負担となるが、詳細調査に向けて住民の理解を得られるよう最大限努力したい」と述べた。建設地となる自治体に対しては地域振興策を打ち出す方針も表明し、道路整備や公共施設整備などを示した。
3市町長からは反発の声が上がった。猪股洋文加美町長は「机上の議論と実情は異なる。地域特性を踏まえないままでは前に進まない。このままでは町として協力はできない」と述べた。
井上副大臣は21日、村井嘉浩知事とともに3市町を訪問し協力を求める。村井知事は「どこに建設する場合でも、住民から大きな反対の声が出るのは当然だ。理解を得られるよう県としても努力する」と述べた。(河北新報 2014.1.21)
そりゃそうだ。
『がれき受け入れ拒否』に一定の存在を認めた世の中で、指定廃棄物の持ち込みを認める決断が出来る首長は少ないだろう。
袋に詰めて半分野外のような所に積み置く現状よりも、コンクリートで囲った場所に埋めてしまう方がいいとは誰もが考えているのだろうが、施設建設が決まればその地域の産品が危険だとはしゃぎ回る輩が必ず出てくるだろうし…。
費用は増大するが、県内で1カ所といわずに各市町村ごとに施設を作るくらいのことを計画して「あなたの身近な物を処分するのに必要な施設です」と説得するのも一案かもしれない(環境省の手間が膨大になるのでやりたくないだろうな)。
この記事にも書かれているとおり、宮城では少し動き出した懸案だが他の4県では手詰まり状態が続いているらしい。
中には県のレベルで「そんな物は東北へ運び出すべきだ」と主張しているところもあるのだとか。元はあなたたちの身辺のゴミやら下水やらの成れの果てなんですけどね。
「がれきエンガチョ!」と叫んだ男が国会議員に選ばれる世間だから、人気稼業の知事さんも同じ方向にがんばってしまうのかもしれない。
とにかく国の計画とは異なる方向を目指しているのだから、その県で生じた廃棄物をなぜ東北へ移動させるべきなのかを東北の地権者や住民に説明して理解を求めないと知事の責任を果たせないのではないだろうか。
東北電 株主総会 [社会]
昨日、機会を得て、東北電力の株主総会に出席してきた。
「脱原発株主の会」とかいう人たちが、
・女川原子力発電所を廃炉にすることを定款に定める
・東通原子力発電所を廃炉にすることを定款に定める
・東北電力の送電網を分離して全国規模の送電網に一本化することを定款に定める
の3つを株主提案していたわけだが、すべて圧倒的な反対多数で否決された。
『脱原発のなんとやら』と自称する人たちは何であんな風なのかな、とぼくは思ってしまった。
傍若無人にわめく、会社経営陣を小馬鹿にするというか端から敵意を露わに発言する。
株主総会という場なのだから、「いかにして会社の価値を高めるか」という視点で独りよがりではない議論をしないと誰も相手にするわけ無いじゃないか。
会社が傾く、つまり株式の価値が損なわれることになるであろう話をあんな態度で提案して、株主の賛同が広がるとでも思っているのだろうか(1単位だけ保有している株主でも、昨日の終値で119,300円を失うということだよ)。
「政府の強い意向に沿って設備投資したものが、今また政府の意思で使えなくなるかもしれないのだから(東通原発はその可能性が高い)、原子力発電所の土地と設備一式を政府に買い取りさせて、その資金で代替電源を整備し事業の再編成を図る」くらいの提案をしてはじめて、少しは耳を傾けてもらえるんじゃないのか(ちなみに上記の考え方は、株主として身勝手で無責任だとぼくは思うが)。
結局、”大きい者に刃向かっている自分が好き”なだけの人たちなのかなぁ。
大型水力発電ダム開発の計画が持ち上がったらそれには『ハンターイ』な人たち、
地熱を利用するため自然豊かな土地をほじくり返すことには『ハンターイ』な人たち、
自分の住まいの近くに風車が建ったら騒音がイヤなので『ハンターイ』な人たち、
住まいの近くに送電線が通ったら電磁波被害を受けるので『ハンターイ』な人たち、
世界中からガスを買いあさって値をつり上げると他の国の人が困るから『ハンターイ』な人たち、
火力発電所を新設すると大気汚染が生じるので『ハンターイ』な人たち、
とかなり重なり合っているんじゃないのかと見るのはうがった見方だろうか?
一方で、電力会社の重役というのも大したことないなぁ、とも感じた。
「国の判断を待って」とか「国の方針に従って」とか。
並の会社なら地方支店の支店長クラスの権限しかないんじゃないだろうか。
電力事業に関しては、大胆で慎重な経営判断で事業の方向性を舵取りするなんて場面は少なくて、中央の意思の範囲内に自分たちの仕事をアジャストする事しかできないんだろうなぁ。